熱血ライター 神山典士がゆく

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July 12, 2010

追悼 つかこうへいさん

演出家、劇作家のつかこうへいさんご逝去の報が流れています。
言葉もありません。
大好きな演出家であり、また、取材を通していろいろな思い出を下さった
僕にとっては貴重な方でもありました。

心からお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。

初めて出会ったのは、確か80年代末期の復帰作『今日子』の客席でした。
関係者対象のゲネプロの舞台で、客席の中央に据えられた演出卓に座ったつかさんは
「役者の演技は完璧です。あとは照明と音響のチェックだけです」と早口でいって、
そこから緞帳が開いて、完璧なるつかワールドが展開されたのでした。
北見敏之さん、塩見三省さん、山崎健二さん等々、その舞台で知り合い、
その後ながーくおつきあいさせていただいている役者さんも大勢います。
彼らにとっても、思い出深い作品だったはずです。

「お前、俺と勝が仲良く酒なんか飲めるわけないだろ」
電話でそう怒られたこともありました。
まだBAZAARが新木場の川沿いのマンションにあったころでしたから、90年代初期の
ことだったでしょうか。
勝新太郎さんと二晩連続で六本木で飲む機会があって、二晩目に「つかさんも呼びましょうか」と
盛り上がってしまったんです。
ちょうどつかさんが演出したキリンラガーのCMシリーズが、勝さんの麻薬騒動でお蔵入りになった
直後のことでした。
二人とも「いいデキだろ」と、互いの事務所で自慢し合っていたんです。
それを知っていたから誘ってみたのに。とほほ。
でも己の「筋」を通すことにかけては絶対に狂いのない人でしたから
誘った僕が悪いのですが。

そのつかさんのことを書いた拙文を
『熱血eライブラリー』に緊急アップします。
せめてもの追悼とさせてください。

つかさん、いろいろとありがとうございました。
つかさんのご遺志は、多くの演劇人たちによって継承されていきます。
僕もまた舞台を愛する一人として、精一杯のルポルタージュを書いていきます。

安らかに。安らかに。

http://100-elibrary.com/

2010 07 12 [演劇] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

January 05, 2005

うひゃっ、カナモリ君から賀状が

今年の正月で嬉しかったことの一つに、新潟市民芸術館の舞踊部門芸術監督、金森穣君から賀状をいただいたことがありました。観ましたか?彼が率いるノイズム04。僕は夏にパークハイアットのホールで観て、暮れに新国立と松本で観て、秋には新潟でインタビューもしてきました。29歳で本職はもちろんコンテンポラリー・ダンサーですが、振り付けもできるし何より言葉を持ってる男なんす。肉体が勝負のダンサーなのに、語ることもできる。右脳と左脳のバランスがいいんだろうな。その彼とノイズムのことを、新潟日報の小さなコラムに書きました。もしかするとまだ未掲載なのかもしれないけれど、正月だし、ここに載せちゃいましょう。新潟以外の人にはなかなか目に触れない媒体ですもんね。許せ金森君。今頃ニューヨークで踊ってるはずです。コンテンポラリー・ダンス。今年ブレイクの予感ですよ。 

「繰り返し繰り返し金森穣とNoism04を観る。東京で、新潟で、松本で。もちろんそれは至福の目撃体験であることは間違いないのだけれど、時にそれは軽い絶望を喚起させる。その肢体、その跳躍、そのリズム、その関節の可動域、そして一一人のメンバー全体のシンクロニシティ。全てが私にとって奇跡であることは間違いない。けれどならばせめてそのパフォーマンスの意味やキーワードを「理解」しようとする一般ファンの希望すら、金森は時に軽々と裏切るからだ。
 六月の東京公演。ステージと客席の境をなくした空間で、私の背中に触れ合うように踊ったダンサーから一通の手紙を受け取った。「この手紙は過去という、未来の過去に送られる」。真っ白な紙にはそうあった。
 わからない。
 一二月の東京・新国立劇場と松本・市民芸術館の公演では、一幕と二幕に黒装束を纏った男が舞台を横切った。死に神か、あるいは世界最強の柔術家、ヒクソン・グレイシーか。「あれはなんの意味だったのですか?」。公演後、毎回金森の希望で設定されるアフター・トークの席でそう問う声があった。
「答えたくありません」。
 たったひと言、金森はそう言った。
 観客の生の反応と反響を知りたい、感じたい。けれど意味は問われたくない。
 それが金森の一貫した姿勢だ。
「人と人が人を生み。人を人が傷つけて。」「それは重力を必要とし。それは重力を超える旅。」
 毎回金森は、その肉体の文体だけでなく独特のテキストの文体も観客に提示する。その心地よい響きは、言葉ではなく単なる音だ。おそらくこの文体は、一七歳で単身渡欧し日本語が単なる音でしかない環境で培ったものだ。意味こそ無意味。無意味こそ意味。時折口にするそんな言葉も、金森の異文化体験に根ざしていると理解できる。
 だからこそ。金森はわかろうとすることを嫌う。共同体幻想でしかない言葉を越え、コスモポリタンとしての肉体こそを信じる。信じながらも言葉の重みも知っている。その姿を見て私は感じる。この絶望の向こうにこそ本当の共感があるのだと。まずは共同体を蹴り壊せ。そう思い始めたら、もう金森の術中にはまった証拠だ。」

2005 01 05 [演劇] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

October 14, 2004

求道者たちとの至福の一夜

山の手事情社をご存じですか。って、いきなりこう書いたら知ってる人は知ってるし、そうでない人はそうでないという面白くない結論になりますよね。旗揚げ二〇年。早稲田の劇研出身、安田雅弘率いる劇団です。その二〇周年記念公演に行ってきました。青山円形劇場。「オイディプス@東京」。いいです。相変わらず。冴えてます。一時間半の公演が、いい意味で二時間を越える重さに感じられます。だるいのではなく、質感溢れるという意味で。演劇の手法で言ったら、その中に浄瑠璃、歌舞伎、エチュードといった様々なテクニックが駆使されています。役者の肉体でいったら、男性陣の鍛えられた四肢だけでなく、白いロングドレスから時折除く女優陣の脚の筋肉にも、日頃のたゆまぬ節制の後がくっきりと記されています。そして安田君の台本も、大台詞あり囁きあり、見事な構成です。何よりも、こんな濃厚な舞台が、青山円形ホールの一五〇人キャパで四〇〇〇円で観られるのが素晴らしい。おそらくパリにもニューヨークにもベルリンにもない演劇のレベルが、今の東京にはあるのだと思います。(それを諸手をあげて支持しているわけではありませんが)。彼らの日々の精進・鍛練や如何に。そんな思いをはせながら帰路につきました。
おりしもその日の昼は三田のコートドールでいただきました。不覚にも今まで縁がなかったレストランなのですが、噂に違わぬ静謐さです。料理もさることながら、テーブルの上の塩と胡椒の存在に驚きました。「これはいつも用意されているのですか?」ギャルソンにきくと、しばらくしてからこう教えてくれました。「斉須シェフにきいてまいりました。特に意味はないそうです。ただ、濃いめ味がお好みのお客様もいらっしゃいますから」とのこと。およそ名だたる美食家の間でここ何年もこの国で何本かの指に入ると絶賛されているシェフの言葉がこれです。「完璧に仕上げました。が、究極ではありえません」。そんな言葉も聞こえてきそうです。超一流がもつ謙虚な佇まいをそこに見る思いでした。
食事の後、厨房を見せて戴きました。ストーブ前に陣取る斉須さんを筆頭に、五、六人の料理人が白衣ではなく思い思いのTシャツ姿できびきびと働いています。そしてステンレスの調理台や器具はあくまでもピカピカ。その上、調理台の上には、いま正に料理に取りかかっている食材とそれに必要なフライパン、鍋等しかでていません。つまり料理を出したあとの調理器具と残った食材等は即座に然るべき棚や冷蔵庫等に片づけられるのです。一日に五回掃除するという話を聞いていましたが、いやいや、ここでの掃除はその場その場の習慣なのだと気づきます。
八六年のオープンから一八年。支店を出すでなくマスコミを賑わすでなく、斉須さんは毎朝五時半には厨房に現れて、約二〇〜二五名のお客の為だけに人生の何分の一かの時間を捧げます。料理をいただきながら浮かんだのは、「自立を促されるレストラン」という言葉でした。客はマスコミの批評や評判に頼ることなく、自分の味覚、触覚、視覚等を総動員して味わうことが求められます。料理人もまた、名誉や評判にもたれかかることなく、今、目の前の食材との対峙がひたすら続きます。何かに依存する事を嫌うと、人はこんなにもピュアになるのか。ここにも求道者がいます。
とはいえ、僕は市場原理主義者です。動員二万人を誇る劇団☆新感線のド派手な演出も好きだし、贔屓にしている料理人が二号店を出すと聞けば、そりゃめでたいとも思います。
けれど同時に、気まぐれで移り気で流され易い大衆の性も知っているつもりです。それを煽るメディアの一員として、某かの自己嫌悪を感じているといっても過言ではありません。
求道者たちとの至福の一夜。彼らの日々の研鑽に、素直に頭を下げる夜になりました。

2004 10 14 [演劇] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

October 03, 2004

あいつが死んだ夜も、おいらは飲んだくれてた

原稿執筆と編集者との打ち合わせを終えた夜、事務所の留守番電話に一本の悲報が入っていた。「女優の金久美子さんの訃報が今日の夕刊に出ていました」。聞いた瞬間まさか!という思いと、来てしまったかという思いが錯綜した。
つい前々日、阿佐ヶ谷の「吐夢」で、カウンター内のカズコさんに「最近クミジャはどうなの?」と聞いたばかりだった。
「あんまりよくないみたい」。彼女は表情を曇らせてそう言っていたが、悪い予感が的中してしまうとは。
「クリミジャが胃ガンなんや」。作家の梁石日にそれを聞いたのも確か吐夢だった。梁さんに会うのも久しぶりだったし、まさかその口からそんな事を聞かされるとも思っていなかっただけに、唖然としてしまった事を覚えている。でもそのあとクミジャの自宅に電話したら、同居人が「大丈夫ですよ」と語っていたし、その後池尻のフリースペースで芝居も一本うったはずだ。テレビ欄にも名前が載っているのを見て「あぁ、復帰したんだ」と安心していたのに。なんという。
こうなると、彼女ことを最後に書いたのは劇団扉座の二〇周年記念公演、「ハムレット」の時ということになってしまう。あの時彼女はハムレットの母、ガートルード役で客演していた。演出の横内謙介は、「ハムレットは美しい母親に恋心を抱いていた」という新解釈で、マザコン・ハムレットを成立させたものだ。それもこれも金久美子という女優の華の存在なしにはありえない設定だった。
ところがその稽古だか本番だかの帰り道、たまたまタクシーに同乗して「艶かしいガートルードがいいですね」と言ったら、静かにひと言「私はオフィーリアだってできるのよ」と言った。その時の艶っぽい表情が忘れられない。時に四〇代になったばかり。一〇代から黒テントや新宿梁山泊で活躍していたから僕らには「一世代先輩」「テント世代の女優」という印象が強いが、本当は横内や僕と同世代と言ってもいい。表面的にはしなやかさの方が印象的だが、その芯には誰をも寄せつけない強靱さを持つ人だった。ま、女優なんだから当たり前だけれど。
フィリピンの海が好きで、オフになると決まってフィリピン在住の友人の家に遊びに行っていた。一時はインディアンの精神世界にも凝って、確かニューメキシコの方にも旅したとか聞いた気がする。自由人であり、一本気な人であり、激しい気性の人だった。いろいろな仕事をしていたけれど、やっぱり舞台を愛してやまない女優だったと思う。作家の永沢光雄さんが確か彼女の長編ルポを企画して、インタビューも何回か受けたていたはずだ。僕が書けないのは寂しいけれど、こうなってしまった以上、せめて文学の中にでも生き続けてほしいと思う。そうそう、梁さんの作品の中には彼女が登場しているけれどね。その少女時代を結構赤裸々に書かれていて、「あれ、読んだの」と聞いたら、「読まないわよ。でも、梁さんなら何を書かれてもしかたないもん」と笑っていた。そんなふうに微笑むと、日だまりに佇む少女のような香りがする人だった。
安らかにおねむり下さい。合掌。

2004 10 03 [演劇] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック